昭和42年12月18日 夜の御理解       



 今日の報徳祭の後の親先生のお説教の中に、三代金光様のお言葉の中に、あちらは秋穂でございますからと仰せられたお言葉を見せて下さったという言葉がございます。あれはあの、あちらが開けっぱなしでございます、無尽蔵でございます、限りがありませんと仰るお言葉と同じなんですね。そういう事を今日、親先生お話になっておられましたが、本当に、あちらの方は開けっぱなしと言われる、無尽蔵である、限りがありません。とりわけ今日のご大祭を頂きましてから、それを感じますですね。本当に、まるきり人間は演出してからでも、あのようには出けませんような、その、まあ、もちろん神様の御演出でございましょうけれども。もう、はじめから最後まで、万事万端にわたって、まあ、そのお繰り合わせを頂きましたですね。皆さんも本当にそこの、この無尽蔵のおかげに繋がるおかげを頂いてもらいたいと思います。それが、あの、皆さんだって無尽蔵、限りなくおかげを受けておられるんですよね。だれだって、その、今日一日ととうとう食べられなかった、と言ってるんじゃない。これは何とはなしに、これを与えられておると。しかも、限りなく、こう与えられておるのでございます。その与えられ方が違う。ね。やっとかっとの人もある。まあ、例えば金額的にいうならば、100円がやっと毎日与えられとる人もありゃ、千円の毎日与えられておる人もあるように。なら、せっかく、与えられる、おかげ頂くならばです、もう本当に大きく与えられ続けなければいけんのです。で、そこで、信心を豊にしなきゃなりません、信心を大きくして行かなければならないと。という、訳なんですね。なら、そういう風に大きくして行く事の中にはです、もうそれこそ、なんか霜の朝に、こう、張り詰めた氷のように張り詰めたもの。そういうようなものが、この、あるという事が信心じゃない。なるほど、霜の朝のような厳しいこともあろうけれども、また、春の花爛漫の時もあってよろしいのですよ。例えば、御大祭なら御大祭という事を通してからでもそういなんです、ね、御大祭の始まる前、私はいっぱい機嫌であったらいけませんですよね。祭典中にここでは、ああであってもいけない。ただ、自分の心は、もうただ何もない。ね。今日は私、朝の御祈念のこうやって皆さんのお届けをさせて頂く、お伺いがございました。皆さんがお伺いみんな断りました。まあ、お祭りが済んでからですから、私の頭は、今、大祭の事でいっぱいですからという。ね。もう、私の、もう全身全霊は、もう御大祭に向けられておった。御霊様に向けられとった。ね。それかと言うと、んなら、私が頂いて、ね、御直会が、いつも説教の御挨拶やら済んで直会がありました。もう、先生方も裏の方で、もう、その、待ち長かったと思いますくらいに、もう裏で、休んでおられる先生方もございました。ね。ですから、もう、ご直会が始まりましたら、誰んここに出て見えんとですね。その中で何人かそのお食事して下さる方はあるけれども、総代さんも誰も、男の方がお世話に出てこない。結局、自然、私が一人でお世話をして回らなければならないのですよね。もう、途端に回ってしまいますね。私はずいぶん、今日は頂いただろうと、こう思います。で、とうとう、もう(   たいて?)呼んできてくれ、と言ってほれで、交代させて頂いてから席を下がらせてもらいました。ですから、もう私の心を、もう本当に春ごこちなんです。ね、もう私は、それを飲みながらでも、ね、私は皆さんの伺いを、皆さんの場合のお伺いでございましたが、そのお伺いも・・?させて頂くんです。ね。只今の、まあ、私は皆さんのご直会を頂かれる時にもちょっと席、皆さんお神酒を、先生方にあげただけで、(     )だけで、私は立たせて頂いてすぐ休ませてもらいました。久富繁雄さんと久富先生が、あんまをして下さっておる夢心地で、そのまま休んでしまって。もう、御祈念の時間まで休ませて頂きました。ほれで、ここへ座らせて頂いても、何かまだ、これ一向にスッキリせんような感じですね。そして、ここに座ってから、ホッとこう思うんですね。?御霊のお灯りが、片一方点いてない。あら、御大祭中には点いておった。御挨拶を申し上げた時には点いておった。ね。これは、あの、四六時中お扉だけは点きっぱなしでございますから、わざわざ大祭の日にちゅうような事ね。普通(    )上でしょう、神様は自由自在がお出来になられる神様なんですから。電気の線も一時ばかり繋いでござるような事は問題はないのですよ。ね、けれども、御祭典中は神様が、こう外れておって見るとけれども、御大祭が済んだら、その合間に切れておる。有り難い事ではあるけれども、何とはなしに、私は冷やっとする。ね。神様、おかげを頂いた。祭典中でなくて良かった。神様のご都合であろうが、本当に神様、有り難うございましたと言うて、お礼ば申し上げさせて頂く。私の心の中にです、それこそシャンとする。冷たいものを、いわば冷たい水で(    )水洗う、あの水で顔を洗うような感じなんですね。そして、私御神前にですね、今日あの、大きな赤貝が沢山お供えになっておりましたですね。大きな赤貝がですね、だらーっとこう中身を出しておるんです。あれは、生きてる印なんですよ。ね。死んだら、動かん。こうやって口を防いでおりますですね。生きておるからこそ、ピシッと蓋も閉めんかわりに、また、ダラーっと中身を出してしまうんです。けれども、神様が、ほらっと、こう、ポッとこう、突ついて見えただけで、私の心がシャンと致します。ここが信心は大事だと思いますね。ね。お酒を飲むならば、飲むほどに、酔うほどに、言うならば心は春めいて来るのでございます。それがいけないと仰るのじゃないのですから、信心は難しい事じゃないでしょうが。いつも厳しいが、という事だけではないという事です。ね。けども神様が、ほらほら、とこう例えばお気付けを下さる。それを、私どもの心でパッとキャッチするとこだけの信心が日頃いつも出けておらなければならん。ぼんやりしておる。(          だって、なら、片一方の電気が消えておることは、言うなら気付かないじゃないですけど、私のごとハッとしてない訳です。ね、ダラーっとなりっぱなしなんです、ね。そげんとこを、フッとこう、私どももそういう神経をおかげを頂いております。ね、御祈念前に慌てて取り換える事が出来る。そうでしょうが。そういう自由自在な神様がわざわざ大祭の日に消えるようになさらなくても、ね、昼も、昼いつも点きっぱなしですから。ね。昼の(    )時に消えても、消えても良いのでございますけれども、神様はそういう事の中にもお働きを下さるという事なんです。そして、私の心がダラーとしておる。なら、そのダラーとしておる事もいけないのじゃないて。はあ、今日はあれは、少し酩酊したの。はあ、今日はもう、なら神様すいませんと、こういうで休んで、そういう何か目を細めて見ておって下さるような気がする。けれども、さあ、シャンと一度御神前に出たとたん、向かうたが最後。私の心がシャンと、それこそ冷たい水で顔を洗うような思いを下るという事が有り難いのですね。ね。信心というものは、そんなに、ね、とても私の修行、信心の修行とこう言うけれども、そんなに難しい事じゃないて。例えば、御大祭一つの中にも現れておるですね。朝から御大祭を、御祭典を仕え終わるまでは、もう緊張。それこそ、心は(       )おる。が、御直会もやっぱり、御大祭の延長だと言われておりますが、その、なら、御直会の時には、私の心はもう、(張る?)ようである。ね。そういう中にです、神様の御自愛というかね。神様の御思いというか。それも、これに感じさせて頂ける、いつも有り難い事だな、勿体無い事だなという事が感じれる、ずっと。ね。そういうおかげを皆さん、頂いたら信心は、いわゆる楽なんです、有り難い。そういう信心をいつもそん、身につけなければいけないと思うですね。どうぞ。